ゴータマ・シッダールタが、出家した時のエピソードとして必ず出てくるのが、「四門出遊」の話です。「しもんしゅつゆう」と読みます。シッダールタがまだ覚りに達してブッダとは呼ばれる以前のお話です。
シッダールタは、箱入り息子として育てられて、父親や長老たちの計らいがあって、17歳くらいの頃にはもう結婚して子供もありました。
父親は、シッダールタが出家してしまうのではないかと心配で、なるべく家から出ないよう、夜毎に宴を開いたり、シッダールタの気を惹くようにとりなしていましたが、彼はもう宮殿内で過ごすことに飽き飽きしていました。
四門出遊
ある時、城壁の外を見たくなり、馬車で遠出をすると、東の門の外で年をとってよぼよぼした老人を見ました。南の門では病気の人を目にしました。次に西の門では死んだ人を見たのでした。東・南・西と進んで、「老・病・死」と出会ったのです。
次に北の門の外では、頭を剃った僧がいました。従者から出家修行者だと知らされると、シッダールタは何とも言えない新鮮な気持ちにさせられました。彼らは、正しい行いや、生きる目的、そして救われた気持ちなどを追い求めている修行者だというのです。ああ、自分も出家して追い求めたいものだ、と強く思いました。こうして、シッダールタは、29歳の時に出家しました。
仏教は、小乗仏教、大乗仏教、チベット仏教など多種多様で、教義や経典もたくさんあり、宗派もさまざまなで、同じ仏教といっても解釈は本当に様々です。何が何だか分からないというほど複雑になっています。でもブッダが生きていた時代にはもっとシンプルでした。現代では、ブッダの生きていた時代の思想や行動には不明なことが多いけれども、少しずつ研究も進み、ある程度のことが分かるようになって来ました。
三つの主要命題
「何のために生きるのか」「何をすれば良いのか」「どのようにすれば救われるのか」、この三つは何よりも重要な哲学の問題と言っていいでしょう。宗教としても哲学としても、解決すべき重要な命題(テーゼ)です。
しかし、これをストレートに説明したものはあまり身近にはありません。それは答えを短い表現で言い表すことができないからなのでしょう。哲学であれば長い期間勉強したり、宗教であれば長い期間祈ったりしなければなりません。そんなわけで、多くの人は仏教の入り口まで来ても、そこで立ち止まってしまうのかもしれません。
ストレートに説明されていないように感じる原因はいくつかあると思います。
「四門出遊」はゴータマ・シッダールタが出家した根拠となる話であるにもかかわらず、どうも説得力がイマイチないのではないか、ということです。これは難しい謎々のヒントにもなっていて、それ自体が原因でも答えでもないように思えます。
「四門出遊」はシッダールタの出家の暗号となっていて、出家の意味とその答えは対になっているのです。そして答えの方はその先のことを理解しないと見えてこないのです。問題と答えが一体になっている、というのは、よく禅でも出てくるような考え方なのかもしれません。
東、南、西が悪くて北が救いだというわけではありません。まず、「老・病・死」があり、それは常に生きている人の周りに必ずあることなのです。
「老・病・死」の衝撃
日本でも戦中・戦後はさておき、1960年代頃から1990年くらいまで、「老・病・死」は、今よりもずっと隠されていて見えないものだったように思います。
しかし、シッダールタが生まれたのは、紀元前5世紀前後のインドとネパールの国境近くで、階級制度がすでにあって、身分の差が大変に大きかったのです。今の感覚で医学と言えるようなものはなく、病気に対しては薬草やおまじないで対応する時代だったわけです。
シッダールタは、箱入り息子だったので、世の中のことを何も知らされませんでした。というよりも隠されていたのです。そして、大人になってから初めて、社会の問題(貧困や階級の問題)と「老・病・死」の現実を知ったわけです。だからこそ、知った時の衝撃が大きかったのでしょう。
大人になるまで隠されていた現実が突如明らかになったことによる衝撃、これが出家の直接の原因であるように言われています。
隠されていなかったら、もしかしたらそれほどの衝撃はなかったのかもしれません。シッダールタは出家しなかったかもしれません。本当のところは分かりません。
シッダールタは「老病死」により苦しんだり泣いたり悩んだりする、この世の中の現実に対して、ものすごい衝撃を受けたことが、彼にとっての動機付けとなったということであって、他の人も同じように感じなければいけないということはありません。そこを出発点とする必要もないのです。
無知の知
と、まあ、普通はこのように読んで理解するわけです。しかし、実はこの話は、もっと深く読むことができます。
シッダールタが出家をした理由は、先ほどの三つの命題「何のために生きるのか」「何をすれば良いのか」「どのようにすれば救われるのか」の答えに直結するわけではありません。出家するときは答えはわからないのですから、答えと直結しているわけではありません。
「老病死」の衝撃というのは、自分が何も知らないということへの衝撃だということだと思います。自分の無知に気付いた時には、自分が小さく無力に感じられるものです。王族であってもそれは関係なくて無知で無力なんだと、感じたのではないかと思います。
それがシッダールタの活動のスタートでした。四門出遊は、無知を自覚したという転換点を示しています。しかも、そこでめげることなく、好奇心と行動力に変えて、旅に出るのですから、とてもすごいことだと思います。
生き方を変えるには何かしら強い衝撃が必要なのかもしれません。また無知を知ることが、新しい世界観に到達するための出発点にありました。好奇心と探究心を糧として、旅に出るのです。私たちも同じくここがスタート地点なのです。