「さとり」について思うこと〜「受け入れること」と「集中できること」

シッダールタの「さとり」とは何だったのでしょうか? 「さとり」とは目覚めることであって、新しい感覚や認識の地平を超えることなのだろうと思います。私には「さとり」とは何かを説明することはできませんが、私の思い描く「さとり」のイメージを書いてみました。

ブッダのさとり

シッダールタが得た「さとり」というのは、「受け入れること」から始まって、瞑想の学びや苦行を体験した後に「樹下の打坐(じゅかのたざ)」を通して何かがひらかれたのでした。

「受け入れる」ことが何かキーワードとなっているようですが、通常の生活レベルで苦情を言ったり主張することが悪いということを言っているわけではありません。

誰もが死ぬ、生きていることと苦しみとは表裏一体であるという、そのことを受け入れることができるということなのでしょう。

受け入れることができるようにするために、ある特定の条件を身につけるということなのでしょう。一定の心身の訓練も必要とするように思われます。思考法や心理だけではなく、思想や哲学だけで解決できるものではなさそうです。

受け入れること

シッダールタは、瞑想を勉強したり訓練したり、苦行をしたりして、心と魂の救いを得ようとしましたが、それらには限界がありました。でも、瞑想や修行がダメだと思ってしまうと、それは間違いであろうと思います。

瞑想したから、苦行をしたから、何か答えをください。というような他力本願になってしまうと、それはもうズレてしまう。また、苦しみを感じない様に目を塞ぎ、耳を閉じる姿勢だけでは、やはりさとりには近づけないのです。

そこには何かしら世界の真理みたいなものを「受け入れる」という過程があるのだろうと思います。いろいろなもの(修行や苦行)を試してみる、素直さもあったのでしょうか。

世界は有限であること

受け入れることとともに、重要と思われるのは世界が有限であることです。それは生命の有限ということでもあり、世界の人や動物や資源も有限であるわけです。ブッダの時代にも、陸地が無限に続くとは考えられてはいませんでした。宇宙は有限なのです。そこから理解して受け入れることが必要となるだろうと思います。

大切なことは、自分の外から来るのではなくて、自分の内にもすでにあるという可能性もあります。有限であり、そこには何らかの神の力が及んでいるのだとすれば、人間の中にも神の力の一部が入り込んでいるかもしれません。

全てのものが有限であることは、子供の頃からだんだんと気づいていきます。人には、寿命があって、誰もが必ずいつかは死ぬということ。命は有限です。樹木は、人間よりも長く生きるものがたくさんありますが、やはり寿命があります。

何をやってもどうせ人はみな死んでしまうから無意味だと思ってしまったら、何も生み出すことはできません。いずれは必ず訪れる死を怖いと思ってしまうこと自体は、理性があるから当然のことなのです。しかし死を怖いと感じること自体を否定わけでもなく、恐怖を無理に遠ざけることもせず、忘れずに意識しながら、しかもそれが気にならなくなるような考え方・生き方というものがあるはずだと思うのです。

怖いけれど怖くない

禅問答ではないですが、人の生き死にを、怖いけれども怖くないこととして認識できるための秘訣のようなものがあるのでしょう。現実はしっかりと見ていながら、それでも何かに集中し続けられるような何か。

夢中になることっていうのは、ダイレクトに修行をしても良いのでしょうが、そうでなくても仕事でも勉強でも良いのかも知れません。理性があって、「全ての人は死ぬ→私は人である→私は死ぬ」という三段論法を理解して、自分が死ぬことを認識します。

ものごとをあれこれと考えるタイプの人で、人はどこから来たのか、なぜ生まれて来たのか、人は死んでどうなるのか、こんなことを夜に悶々と思い悩むタイプの人が、ブッダのお客さんだったのだろうと想像しています。

集中するための仕組み

思い悩むことは多くの場合、楽しい結論には進みません。結局何をやっても意味がないんだという悲観論に傾きがちであるようです。よし、短い人生をぱっと楽しく生きよう! と思える人は、そもそも宗教を必要としない人なのですから。

思い悩む人たちであっても、その先に救いが見えるような、光が見えるような、論理というのはあるはずで、しかもやたら難しいこともなくツボを抑えれば簡単に理解できる、というようなイメージです。

死後の世界はどうなのか、など一切の情報が得られない命題は考えるだけナンセンスです。生きていることをいくら分析研究しても死後の世界については情報が得られないのですから。

このように考えてくると、「さとり」というのはリアリズムを追求することであって、夢の境地ではあっても実現可能であり、活力を持って生きることができる、澄み切った状態を維持するためのループなのかもしれません。

 

更新:2021年10月17日