ブッダの教え自体は宗教じゃない、でも仏教は宗教なのである!

ブッダの教えは、宗教ではないらしいのです。神様も出てこない、超自然の現象もなくて、信仰というのとは異なるようなのです。

ブッダが死後の世界はどんなものですか? と聞かれて、「死んだことないから知らない」と答えたそうです。

ブッダは超自然のことを何も話しませんでした。霊的なものを信じるように話したこともありませんでした。

ブッダの教えは宗教ではない?

死後に三途の川を渡ったり、49日にどうなるこうなるとか、輪廻転生と言って、生まれ変わるのだとか。こうなってくると、宗教色が大変に強く感じられますが、ブッダが生きていた時には超自然的な話をしたわけではありませんでした。

輪廻とは、ブッダが生まれた頃にすでにあった、古くからあるバラモン教の考え方でした。生き物は死ぬと他の生き物に生まれ変わります。死んだらもう過去の記憶は一切消えてしまい、虫や動物に、時には人間に生まれ変わるのです。

生きることは、すなわち苦痛であるので、死んでも決して逃れられないという束縛感が「輪廻」の意味です。さとりを開いて解脱すると輪廻の呪縛から解き放たれて二度と生まれ変わらない平穏な世界に行くことができる、というのがブッダが考えた理論です。

輪廻転生とはブッダの時代以前からあるバラモン教の根本概念ですが、近年の仏教研究者の間では「ブッダは輪廻の存在を否定している」という学説もあり、議論になっているようです。

死後の世界なんて考えても仕方がないから、今生きている時間を大切に生きなさい、ということのようです。もともとブッダは死後の世界の存在を一切認めていないのです。

これに関連したところで、「毒矢のたとえ」というのがあり、毒矢に刺されたらどうするか? というケーススタディがあります。毒矢に刺されたら、あなたなら、さあ一体どうしますか?

うっ、毒矢に刺された、と思ったら、誰が矢を放ったのかとか、どこから打ったのかとか、どんな毒なのかとか考える前に、まず毒矢の治療をせよ、というのがブッダの答えです。

ブッダは「死んだことないから死後の世界なんて知らない」と言ったわけですが、それは何よりも、まず生きることが大事だということであるわけです。そして、今生きている、この瞬間をきちんと生きていこう、ということなのです。

死後なんて知らない、毎日をちゃんと生きる

ブッダの教えは、「生きているうちに悟りを開きなさい。悟り=仏になりなさい」ということです。でも、ある時どこかでは「悟りを教えるのは難しい。それは無理だからやらない」と言ったこともあるそうです。

重要なことは、ブッダの話や考えには、超自然的な力は出てこないということなのです。

ブッダの話には、瞑想して、思考を止めるとか、無我に至るとか、煩悩を断ち切るとか、生きること自体が苦であるとか、全てを受け入れるとか、さまざまなエッセンス(重要なこと)が出てきます。

でも、ただ何かを信じれば救われるとか、お経を唱えればご利益があるとか、そのような話は一切ありません。超自然的な力はどこにも出てこないし、もちろん死人を生き返らせたりもしません。

仏(さとり)に至る道を「仏道」という言葉もあるようです。これは「悟り」あるいは「覚り」に至る修行の道をいう言葉です。日本人には、大変にしっくりくるように思います。茶道、剣道、柔道、華道も道であれば、日本の宗教である神道も道と書きます。

さとりへの道のことを「覚道(かくどう)」とか「悟道(ごどう)」という言葉もあります。仏道よりももっとダイレクトな表現です。

瞑想と思考のコントロール、生きる考え方=哲学

ブッダの教えは、おおよそ瞑想と思考のコントロール、そして生きていくための哲学なのです。神がかり的なことはあまりありません。欲望を刺激するもののことを悪魔(マーラ)とか呼部こともありますが、比喩の範囲を超えるものでは全くありません。

シッダールタは、仏=ブッダとなってからも、瞑想と修行することを否定せず、その後も継続しました。ブッダ自身は終生続けたようです。しかし、それを必ずやらなければいけないと言っているわけでもないのです。

ブッダは瞑想と苦行とを経て、さとりに至ったのですが、それ以外の方法ではさとりには至らないとは言っていません。方法はいろいろあるかもしれません。あくまでも自分はこうしてブッダとなったと言うだけなのです。論理的です。

ただ、瞑想によって、思考を停止させ、感覚だけを研ぎ澄ませて、生を感じる、というようなことは、瞑想の修行をしないと、やはり到達できないことかも知れません。

ブッダの哲学は科学であるという考え方もあって、これは「怒らないこと」を書いたスリランカの僧侶、アルボムッレ・スマナサーラ老師が言っています。日本語での講演がYouTubeで公開されています。

仏教は弟子たちの心の世界

ブッダと共にした弟子たちも、そしてその後の世代も、様々な活動をしました。そして、それから1000年以上も経ってから日本にも仏教が伝来し、平安時代にいくつかの宗派ができました。その後の鎌倉時代にもたくさんの宗派ができました。

これらはもう完全に宗教になっています。釈迦は覚りに達して解脱したけれども人間だとする宗派もあれば、ブッダはもう神であるとする宗派もあるようです。フラットで平等な組織があったり、上下に階層を成す組織もあったりします。

ブッダが生きていた頃の集団はフラットな組織であったようです。一方で、もっと時代が下った(ブッダの頃より1000年くらい経た)頃には、中国では国家の運営に組み込まれていきました。

(その後、中国は仏教を辞めて、政治体制と宗教を儒教で統一しました。)

その時代の仏教を日本も取り入れました。遣隋使や遣唐使の時代です。聖徳太子(近頃の教科書では厩戸皇子というそうですが・・)は、中央集権国家を作るために仏教の導入を進めました。

この時代の仏教は、もうすでに立派な宗教として成立していました。深い精神世界を持っていました。複雑な世界の諸相を反映した、深い世界観があったのでした。

お経を唱えるのは、儀式です。お坊さんがお経を唱えると、参列者はそれを聞いてはいますが、ほとんど意味は分かりません。意味の分からない言葉を聞いていて、何かの役に立つと考えるのは近代科学的には考えにくいことです。それは、まじないや祈祷の世界の儀式だと考えられます。

ブッダが亡くなってから、もう2500年が経っていますが、それこそもう何千万人という人が真剣に仏教のことを考えてきたわけです。多くの理論が考案され、多くの解釈が生まれ、多くの仮説が提出されました。現代の仏教の教理のほとんどは、ブッダが考えもしなかったことでしょう。ブッダが賛成したかどうかも分かりません。

仮説とは言ってもそれぞれが、長年研究され、修行を通じて真剣に考えられたものには違いありません。ただ、この仮説は膨大な量で、行(センテンス)で数えるとおそらくは100万行を超えるのではないでしょうか。宗派、学派、経典などの数を考えると不思議ではないのですが、あまりにも複雑で多様化しているということだろうと思います。

キリスト教では、ローマ教会が正統と異端とを裁定したので、ある程度の統一性を維持できましたが、それでも宗教改革は起こり、ドイツのプロテスタントから始まって分離独立して行きました。

一方で、仏教の世界では、ブッダは創始者としての最高の権威を持っていますが、初期仏教の時代から思索は自由であり、ブッダを取り巻く集団は完全に平等主義だったのです。

ブッダを崇拝する人たちが、ブッダの考えに共感してそれを自分の言葉で再構成しようと努力した結果、多数の解釈が生み出されました。その中でブッダを一人の人間の師範としてではなく、至高の存在として、神格化するようなグループもありました。ブッダの死後のいくつかの活動団体がのちに宗教団体として発展していきました。