「さとり」ということに関しては、僧侶たちや、その他の宗教関係者の言葉から、「すぐにパッとわかるものでは無いのだ」という意味合いが感じられることがよくあります。「気長にやれば良い」というのもあれば、「そんなに簡単にいくものか」というのもあるようです。
「さとり」へ達するまでの時間
学問においては、知識を習得して理論を理解して、問題を解決する創造性を発揮できれば、本当に若くしても教授になれるわけです。頭脳明晰さや、新しい問題を見抜くセンス、そしてそれを支える努力などがあいまって、達成されるものだと思います。欧米では20代で教授も珍しくありません。
でも、仏教ではなぜか、時間をかけるということが、尊ばれているようです。早ければより良いという考え方は無いようです。
(さとりを開く前のブッダのことをシッダールタと書くことにしますが)シッダールタが、竹林で苦行したのは6年間程度と言われています。苦行はやっぱりダメだということを理解するのに長い時間がかかりました。そして「さとり」に達するまでには、シッダールタはおよそ6年かかったということです。シッダールタは、感受性が強く、頭脳も明晰で、人の気持ちも分かる人だったそうです。
それまでに何か手本となるものも教えもなかったので、真理に気づくまでに時間がかかった、ということなのでしょう。
禅宗の臨済の話では、3年くらいで師匠の黄檗から「さとり」に至ったと認められているようです。禅宗の話は、逸話自体が禅問答になってしまっているものもあるようです。大変に難しいことになっています。
さとりのために苦行は必要ない
苦行を捨て去るまでに、6年もかかった、というよりも、ある程度の時間をかけてゆっくりと自己を見つめる時間が、大切だという教訓がそこにはあるのかもしれません。シッダールタは、最初の一人なので苦労したということはもちろんあろうかと思います。
シッダールタは、苦行をする必要はないと言いました。日本の主要な仏教宗派においても、苦行をすることを勧めることは基本的にはありません。
苦行をせよ、という教えではなく、苦行は単なる例であって、本気で時間をかけて苦労して取り組んでみるということが大切だというメッセージなのだと解釈することもできると最初は思いました。
しかし、やはりシッダールタは、論理的に考えて行動したように思われ、瞑想を学んだ後に、苦行によって自己改造を実践しようしたのだと思うようになりました。
悩み苦しむのが、世界の問題ならば世界を変えなければいけない、でも世界は変えられない。自分の問題であるのだとしたら、外界からの情報を遮断するか弱めるかして辛い日常を変えよう。と、こう考えるのが、瞑想によるものです。
でも瞑想の効果は一時的であって、瞑想から戻ると現実は元のままで、瞑想の正解で得られた心の平安がかえってうとましい。それでは、本当に感覚器官を作り変えてしまおうというのが、苦行に対する期待効果であるわけです。
何があっても、苦しく感じない感覚に自己改造すれば、苦しみから逃れられるだろうという考え方です。でも、これも実現しませんでした。どんなに苦しくても、やはり、理性はあるし、目を開けば現実は何も変わらないということに気付かずにいられません。
「さとり」への論理
その後に、「さとり」の段階が訪れます。心身はトレーニングしたけれども、それは功を奏したのかは定かではありませんが、とにかく現実をありのままに見ることは大切だということを実感されたようです。そして、世界をありのままに見るにも関わらず、苦しくない、と、こんなことはありうるのかと考えていくと論理的には一つ答えがあります。
目の前の現実世界をそのままに見て、「ああ、これが普通で当たり前なのだ」と認識して、しかも「これは当たり前だから何も悲しむ必要はないのだ」と理解するのです。これはベースラインではありますが、ここで諦めてしまっては、何も心の苦しみは取り除くことができません。
ここからのもう一歩が、なかなか超えることのできないところです。自分の感覚を鈍らせないようにして、現実に目を向けて、それを理解した上で、それでも苦しみから抜け出すことができると言います。
頭と体で答える
禅宗では、修行の中で禅問答などもありますが、弟子たちに「答えは、これこれこうです」と簡単に教えるようなことはしません。禅では、頭と体の両方を使って、偏ることなく理解するという状況を作り出す仕組みなのではないかと私は考えています。
禅宗の方からすると、それは違うと言われるかもしれません。人は何かを始めて時間が浅いと「体と頭」の両方で理解できていないということがあります。公式は知っているけれど、パッと出てこない、使いこなせない、というような状態です。そういう知識レベルでは、十分に実用に供することができません。
頭で考えて、それを理解して、次にはそれを他の人に教え、わかりやすく説明できるようになって、それでやっと理解できたと言えるものです。それからは、同様の経験を持った人と話し合ったりして、より知見を深めることができるようになります。それだけの体験をした後では、きっと自信を持って言えるようになるでしょう。
自分なりの試行錯誤
でも、いろんな試行錯誤、そこでは心と頭を使った思考と予測があって、それを実地にいろいろと試してみて、ここは合ってた、ここは少し違った、という気付きの体験をしながら修正を積んで行くと、あるところで、いい感じの状態が来るのだと思います。これはもういい感じなのだろうと思うのです。
それがさらに進んで、「俺はもう全て分かった」なんて思い込んでしまうと、次第に時代から遅れていくことになるのでしょう。
誰も練習できないこと
それでも誰にも練習できないことが一つあるわけです。それは、どのように死ぬのか、ということなのです。死に方は練習ができないのです。死んだ後のことは分からないのです。
そして、そこに怖いという気持ちがあればこそ、全てをあるがままに受け入れるということは簡単ではありません。
難しいことですが、その時も「時間」というのはヒントになるような気がします。時間は好きなだけかければ良いのだと思います。一緒に考えていきましょう。